当時の日本は経済危機の真っ只中。世相はいたって暗い。大阪に放送局が生まれ、ニュースや市況、落語や義太夫などを放送し、いかに宣伝に努めても、ラジ
オは庶民にとって高嶺の花であった。町でもラジオを専門に扱っている店は少なく、大きな電気屋のショーウインドウにラッパ型の拡声装置付の高級ラジオが飾
り物のように陳列されているのを見かける程度であった。
とはいいながらも、しばらくすると、屋根の上に長い二本の竹竿が建てられ、アンテナを張った家が町のあちこちで見られるようになる。同時に、電気屋は一
斉にラジオ店と看板を塗り替え、店頭では、”鉱石ラジオセット”の大売出しを始めた。木の板に鉱石とコイルのようなものが固定されており、コイルの尖端の
針金部分を鉱石の特定の部分に接触させると、ラジオ放送がレシーバーを通して聞こえてくる。「JOBK、こちらは・・」最初はオランダやアメリカなど外国
製のものしかなかったが、やがて国産のラジオが開発された。いまは昔の鉱石ラジオ時代。真空管時代はまだ遠い。
|
|
 |
| 小型鉱石ラジオセットをテス
トをする早川徳次氏(右、現シャープ創業者、大正十四年)(シャープ提供) |
|
|
国産ラジオ第一号の誕生は大正十四年。シャープ創業者・早川徳次が米国製ラジオを 解体して、苦心の末に開発した。
四月〈大正十四年〉、ようやく自家製小型鉱石セットの組み立てに成功した。シャープラジオ受信機第一号で、今日の早川電機のラジオ製作のさきがけであ
る。こえて六月一日、JOBKが大阪三越の仮放送所から最初の電波(五○○W)を流した(JOAKは三月二日初放送)。放送の波は例のセットにみごとには
いってきた。しかもすばらしく明瞭に…。
工場の全員が集まって奪いあうようにしてこの初電波を聞いたのだったがすかっり興奮にとらわれてしまっていた。 機を待っていた私であった。準備は万事
OK、すかさず本格的な鉱石ラジオセット製作に着手、やがて、市販に移した。機敏も商略のコツである。単に鉱石セットと呼んでいたが、やがて「シャープ」
と銘をうった。例のシャープペンシルにちなんだのと、ラジオの感度をうまく象徴していると思われたからだった。おそろしく売れた。作っても作っても需要に
追いつかない。
|
|
最初ワンセット三円五十銭だったが、やがて七円五十銭を最高に四種を製作した。同時に各種の部品も作って販売した。市
場価格もまちまちで人気と珍しいも
の食いの高価格を呼んでいた。七月には月産一万組以上も製作して金属工場はラジオ専門になってしまった。(「私の履歴書」 早川徳次)
鉱石ラジオは、日本人にラジオというニュー・メディアを認識させた。しかし業界は、この程度で満足してはいられない。この時期、すでに外国製品では真空
管式受信機が流通していたのだから…。
|
|