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第三部
パーツ全盛の電器街形成と技術革新の波
焦土の戦後と高度成長期
(1946年〜1974年)
一章 大阪大空襲で壊滅した日本橋界隈
二章 部品卸で賑う
三章 日本人とラジオ
四章 ラジオブームから家電ブームへ
五章 部品卸から小売りへの転換
六章 日本橋に見る高度成長と大量 消費時代
七章 3C時代の到来とIG時代の幕開け
八 日本橋筋界隈の復興と成長の軌跡

三章  日本人とラジオ   

  アメリカから五年遅れて 日本のラジオ放送開始

 日本の電子工業は、戦後から今日に至る半世紀で驚異的な成長を遂げた。そのスピードたるや、エレクトロニクス先進国のアメリカやヨーロッパ諸国が目をむ くほどであった。
 日本橋電器街の軌跡は、わが国の電子工業の発展を抜きにしては語れない。日本橋電器街は戦後の混乱期に芽生え、ラジオ部品の一代集積地となる。そして” 三種の神器”や”トランジスタの開発”など、家電業界と電子工業界のエポックとともに隆盛への階段を上ってゆく。時代は前後するが、ここで日本人とラジオ のつきあいの歴史を記しておかねばなるまい。

 戦前のエレクトロニクス産業は、ラジオ放送の普及と、それにともなうラジオ工業を軸に成長した。発信と受信、双方の歴史をひもといてみることにする。
 世界初のラジオ放送局は、大正九年十一月に開局したアメリカのKDKAだった。二年後にイギリスのBBC、その前後数年のうちにヨーロッパ諸国で放送局 が設立された。

 こうした世界の動きに、日本でもラジオに対する関心が高まっていった。アメリカに遅れること五年、大正十四年三月に社団法人東京放送局(JOAK)が正 式に放送を開始、次いで、六月には大阪放送局(JOBK)が、七月には名古屋放送局(JOCK)が生まれた。この三局は十五年八月、社団法人日本放送協会 として統括され、それぞれ支部となった。さらに昭和二年には、北は札幌の北海道支部から、南は熊本の九州支部まで全国に支部を配置。翌三年には各支部に放 送局が設けられ、全国中継放送網が完成した。

 大阪でのラジオ放送発祥地は、高麗橋の三越の屋上である。大正十四年五月十日にこの屋上からラジオの試験電波を発信。六月一日に仮放送を開始、この日が 大阪のNHKの放送記念日になった。三越屋上の、ところどころにガラスの覗き窓がついた仮設スタジオの前は黒山の人だかりであった。「アンテナゆうもんを 屋根の上に立てたら、家で寝転んで落語が聞けるらしいでっせ」「あれがマイクロフォンたらいうもんやそうな・・・」。人々の電波メディアに対する認識が皆 無に等しかった時代、この文明の利器は大衆を驚愕させるに十分の威力を備えていた。

東京・愛宕山のNHK
東京・愛宕山のNHK(JOAK)
(岡本無線電機50年史)

初期のラッパ付きラジオ
初期のラッパ付きラジオ 大正末期
(岡本無線電機50年史)


  国産第一号 の受信機は鉱石ラジオ

 当時の日本は経済危機の真っ只中。世相はいたって暗い。大阪に放送局が生まれ、ニュースや市況、落語や義太夫などを放送し、いかに宣伝に努めても、ラジ オは庶民にとって高嶺の花であった。町でもラジオを専門に扱っている店は少なく、大きな電気屋のショーウインドウにラッパ型の拡声装置付の高級ラジオが飾 り物のように陳列されているのを見かける程度であった。

 とはいいながらも、しばらくすると、屋根の上に長い二本の竹竿が建てられ、アンテナを張った家が町のあちこちで見られるようになる。同時に、電気屋は一 斉にラジオ店と看板を塗り替え、店頭では、”鉱石ラジオセット”の大売出しを始めた。木の板に鉱石とコイルのようなものが固定されており、コイルの尖端の 針金部分を鉱石の特定の部分に接触させると、ラジオ放送がレシーバーを通して聞こえてくる。「JOBK、こちらは・・」最初はオランダやアメリカなど外国 製のものしかなかったが、やがて国産のラジオが開発された。いまは昔の鉱石ラジオ時代。真空管時代はまだ遠い。

小型鉱石ラジオセットをテストをする早川徳次氏
小型鉱石ラジオセットをテス トをする早川徳次氏(右、現シャープ創業者、大正十四年)(シャープ提供)
 国産ラジオ第一号の誕生は大正十四年。シャープ創業者・早川徳次が米国製ラジオを 解体して、苦心の末に開発した。

 四月〈大正十四年〉、ようやく自家製小型鉱石セットの組み立てに成功した。シャープラジオ受信機第一号で、今日の早川電機のラジオ製作のさきがけであ る。こえて六月一日、JOBKが大阪三越の仮放送所から最初の電波(五○○W)を流した(JOAKは三月二日初放送)。放送の波は例のセットにみごとには いってきた。しかもすばらしく明瞭に…。

 工場の全員が集まって奪いあうようにしてこの初電波を聞いたのだったがすかっり興奮にとらわれてしまっていた。 機を待っていた私であった。準備は万事 OK、すかさず本格的な鉱石ラジオセット製作に着手、やがて、市販に移した。機敏も商略のコツである。単に鉱石セットと呼んでいたが、やがて「シャープ」 と銘をうった。例のシャープペンシルにちなんだのと、ラジオの感度をうまく象徴していると思われたからだった。おそろしく売れた。作っても作っても需要に 追いつかない。
 最初ワンセット三円五十銭だったが、やがて七円五十銭を最高に四種を製作した。同時に各種の部品も作って販売した。市 場価格もまちまちで人気と珍しいも の食いの高価格を呼んでいた。七月には月産一万組以上も製作して金属工場はラジオ専門になってしまった。(「私の履歴書」 早川徳次)

 鉱石ラジオは、日本人にラジオというニュー・メディアを認識させた。しかし業界は、この程度で満足してはいられない。この時期、すでに外国製品では真空 管式受信機が流通していたのだから…。

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 第一部 江戸時代から長町の宿場町


 第二部 大阪の文明開化 と大正そして昭和の戦禍

 第三部 パーツ全盛の電気街と技術革新の波


 第四部 日本橋の新しい顔「でんでんタウン協栄会」


座談会 「僕ら の時代の日本橋」〜二十一世紀へ、新しい電器街の創造をめざして〜