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第二部
大阪の文明開化と大正そして昭和の戦禍
明治・大正・昭和前期
(1897年〜1945年)
一章 大阪府のスラム・クリアランス計画
二章 明治の都市整備と内国勧業博覧会町
三章 市電の開通 と界隈の賑い
四章 古本店街と学生
五章 日本橋周辺に広がる町と暮らし
六章 戦時体制下の日本橋

一章  日本橋と紀州街道   

  幻の都市環 境整備構想

 年号を明治と改め(一八六八)、新時代の幕を開けたはずの維新政府だが、資本主義の体制が機能するまでには、ずいぶんと年月を要している。明治中期に なっても、なお封建社会の痕跡を引きずっていた。

 長町裏は、依然として大阪一円に知れ渡る貧民窟であった。明治二十年頃のスラムの位置付けは、封建的貧困・身分的貧困・職業的貧困など、前時代の封建社 会の貧困の要素を色濃く残しており、資本主義経済体制からの窮乏による近代スラムに移行するまでの、過渡期としてとらえるのがふさわしい。

 大阪府としても、貧民窟という都市の恥部をぬぐい去ろうと、さまざまな努力を試みている。府庁で”大阪細民移住会議”が行われたのは明治十八年(一八八 五)九月八日。当然のことながら住宅改良が問題になったわけだが、その第一の理由は何度も襲ってくる伝染病である。当時のこととて、民生・労働行政が明確 でなく、たんに防犯・衛生・都市美といった観点での対策に過ぎなっかった。
明治の日本橋
明治の日本橋 写真左は旅人宿、右は安井家の屋敷で、その後ろに高く建つのは火の見櫓(大阪都市協会・写 真で見る大阪市100年)
 コレラ大流行を発端としておこった長町強制移転問題。その最初は明治一九年七月、府は”長屋建築規制”を施行し、衛生 上有害または危険な長屋の取り締ま りをはっかた。これによって長町の家屋四百四十六戸が撤去された。しかしこれだけでは大型貧民街はなお健在である。行政当局にとって長町の存在は、衛生 上、治安上、風俗上、体面上いずれの観点からいっても悩みのタネであった。この”長屋建築規制”は、コレラ大流行をきっかけに、衛生上の理由を表看板に四 区と二郡(はじめは西成区だけ。のちに東成郡を追加)の”貧区”大移転計画がもちあがったのであった。

 ときの大阪府知事・建野郷三と府警部長・大浦兼武によるこの計画は、明治十九年八月から表面化した。移転対象とされたのは、全体で十八から十九の町村 (うち長町は日本橋筋三・四・五丁目)。長町は当初案では二千二百九十一戸、第二案では千九百二十四戸を占め(当時の長町の総戸数は二千五百四十六戸)、 長町スラムを完全に消滅させるとともに、四区周辺部に散在する貧戸をなくそうというものだった。

 移転先は西成郡難波村西南端。ここに三万坪の土地を買収し、二千七百戸(八千百人)の平屋を建設する。橋・井戸・街灯・樹木・道路などを整え、授産場を 設け、米屋、薪炭商、八百屋、質屋、風呂屋、医師などもおくという、徹底した囲い込み的住居区構想(人口約一万人)である。そして、長町スラム撤去後の跡 地は「中等人の住居」つまり中産階級の中級住宅地への転身が期待されていた。こうしてみると、明治十九年のこの構想は、不良住宅の撤去、市外の近接地に公 費による改良住宅建設、市内の都市環境整備という点で、大正中期の大阪市政に先行する都市政策・市街地再開発政策であり、近代大阪最初の”市区改正”計画 であった。

 しかし、計画実施による土木費の負担増への反対世論に加えて、移転先の難波村農民の頑強な抵抗にあい、残念ながら強制移転計画は破棄された。

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 第一部 江戸時代から長町の宿場町


 第二部 大阪の文明開化 と大正そして昭和の戦禍

 第三部 パーツ全盛の電気街と技術革新の波


 第四部 日本橋の新しい顔「でんでんタウン協栄会」


座談会 「僕ら の時代の日本橋」〜二十一世紀へ、新しい電器街の創造をめざして〜