年号を明治と改め(一八六八)、新時代の幕を開けたはずの維新政府だが、資本主義の体制が機能するまでには、ずいぶんと年月を要している。明治中期に
なっても、なお封建社会の痕跡を引きずっていた。
長町裏は、依然として大阪一円に知れ渡る貧民窟であった。明治二十年頃のスラムの位置付けは、封建的貧困・身分的貧困・職業的貧困など、前時代の封建社
会の貧困の要素を色濃く残しており、資本主義経済体制からの窮乏による近代スラムに移行するまでの、過渡期としてとらえるのがふさわしい。
大阪府としても、貧民窟という都市の恥部をぬぐい去ろうと、さまざまな努力を試みている。府庁で”大阪細民移住会議”が行われたのは明治十八年(一八八
五)九月八日。当然のことながら住宅改良が問題になったわけだが、その第一の理由は何度も襲ってくる伝染病である。当時のこととて、民生・労働行政が明確
でなく、たんに防犯・衛生・都市美といった観点での対策に過ぎなっかった。
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| 明治の日本橋
写真左は旅人宿、右は安井家の屋敷で、その後ろに高く建つのは火の見櫓(大阪都市協会・写 真で見る大阪市100年) |
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