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街道筋である長町の表通りは、旅籠が軒を連ねる宿場町であった。通りを大勢の人々が往来し、町は活気に満ちあふれていた。しかしその一方で、諸国から来 阪した肉体労働者や低所得層の人々も多くたむろし、次第に長町は無宿者の足溜りとなっていった。付近には定職をもたない人や日雇い労働者などが住みつき、
貧しい人たちの住む町になってきた。
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華やかな表の貌と、影のある裏の貌をもつのは、都市の宿命ともいえよう。
長町1丁目から5丁目を“日本橋”と改めたのは寛政4年(1792)のことだが、長町といえば劣悪な住環境の巣窟のようにいわれるようになったので、そ のイメージを刷新することが改称の理由であったようだ。
しかし、呼称が変わっても、その実態はなんら改善されることはなかった。動乱の幕末ともなると、ますます多数の生活困窮者がこの町に流れ込んできて、ス ラム化はすすむばかり。さらに明治5年には、“日本橋筋”と改称され、いよいよ“長町”の名は消えるが、町の貌はいっこうに変わらず、大阪一の密集地で
あった。『浪速区史』によると、合邦ヶ辻あたりは、その日暮らしの人や浮浪者の野宿場であったという。
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宿場町して賑う一方、生活貧
困者の巣窟ともなった長町裏(柳原書店発行・摂津名所図会大成)
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飢えに苦しむ人や病人が増え、商家の店頭で米や金を強請したり、窃盗を働く者も出てきた。そこで文久元年
(1861)、長町の4ヵ所の木賃宿などが町奉 行に出願し、救小屋を建て、老人や幼児、病人を収容することになった。また他の町でも行き倒れになった者は、長町宿屋年行事を通じて救小屋に引き渡した。
長町に流れてきた困窮者や出稼ぎ労働者たちは、やがてここに住みつくようになる。都市はこのような人々にとっても住みやすい場所なのだ。すると、彼らの 生活を支える施設もできてくる。そしてますます同類が流入してくる。秩序は乱れ悪事も増える。長町のスラム化は当然の成り行きであろう。
ところで、江戸時代の長町の低所得者たちはどのような仕事をしていたのだろう。
『商業資料』(明治29年)には、『車力或は下駄直し、羅宇屋、襤褸師等』と書かれている。また『摂津名所図会』(寛政10年)には『名
産傘』という項目がある。
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