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第一部

江戸時代から長町の宿場町

地域の前史・江戸時代・明治初期
(〜1896年)

二章

 日本橋の南に伸びる長町の宿場町 

 



  日本橋は、 かつて長町と呼ばれた


 江戸時代の大坂は、゛北組゛゛南組゛゛天満組゛の三つの郷に分かれ、町数は六百二十町であった。このように町数がはっきりと決められたのは安永8年 (1779)頃からであり、明治2年(1869)に三郷の制度を廃止するまで町数に変わりはなかった。
 三郷以前(元和の頃)の大坂の町は、現在の本町筋を境にして二組に分かれ、北部を゛北組゛、南部を゛南組゛といった。別に゛伏見組゛があったが、これは 正保2年(1645)に廃止されたという説がある。当時の大坂は、淀川(大川)以北は、まだ市中に入らず天満と呼ばれていた。ところがさびしい天満の地に も次々と町家が生まれるようにになり、承応元年(1652)頃に大川以北を天満組と称し、ここに大坂三郷が正式に誕生したのである。
 大坂市中から公儀橋の日本橋を越えると、現在の日本橋筋になる。この町筋は江戸時代には゛長町゛と呼ばれていた。

 町名の由来にも触れておこう。かつて、この付近は白砂青松の美しい海浜で、゛那呉(名呉)の海゛とか゛那呉の浜゛(または゛名児海゛゛阿胡の浦゛など) と呼ばれる景勝の地であったが、しだいに陸地化して松原となった。この゛那呉(名呉)゛が゛名護町゛に転じ、さらに゛長町゛になったものという。また、堺 筋より髭のごとく伸びた狭長の町であったことから゛長町゛になったともいわれている。
 『摂津名所図会大成』には

 寛政7年 公に訴へ長町1丁目より5丁目までを日本橋通と改め6丁目より9丁目までを長町といふ上古 此地ハ海邉にして呉人呉織漢織等呉國より渡海せし時 この濱に着岸せしゆへ名呉の濱名呉の海名呉の江などいへりしにより其遺名にて名呉町と號せしを後世長町といひ誤りなりとぞ尤往昔ハ北ハ長柄よりして谷町通 天王寺西門前を安倍野街道にいたるを紀泉二州の街道なりしが豊臣家の御時堺へ通ふたよりよき為今の住みよし街道を新に開き給ふゆえに是を新道と號すかるか ゆへに市中にいたりてハ堺筋と名づけそめしなり延寳7年開板の難波雀といふ印本ニ云ふ八軒屋旅籠屋十一軒長町旅籠屋十軒とあり今ハむかしに百倍して其數あ けて枚へがたし浪花の繁昌かれにて思ひやるべし
(原文のまま)

 とある。呉の国から織女らが来て住吉津に泊まったことは、『日本書紀』の雄略天皇14年の条にも記されている。

 長町は、南の名呉橋(現在の恵美須町交差点の位置に架かっていた)まで1丁目から9丁目に分けられていたが、寛政4年(1792)に1丁目から5丁目が 日本橋筋と改称された。つまり現在の中央区の区域が日本橋、浪速区の区域が長町となったわけで、いまの゛電器の街゛は、まさにこの長町に位置する。さらに 明治5年、長町6丁目から9丁目も日本橋筋となり、長町の名は消えた。もとの1丁目から9丁目は、新しい町名では1丁目から5丁目に区分されている。


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 第一部 江戸時代から長町の宿場町


 第二部 大阪の文明開化 と大正そして昭和の戦禍

 第三部 パーツ全盛の電気街と技術革新の波


 第四部 日本橋の新しい顔「でんでんタウン協栄会」


座談会 「僕ら の時代の日本橋」〜二十一世紀へ、新しい電器街の創造をめざして〜