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第一部

地域の前史・江戸時代・明治初期
(〜1896年)

一章

 日 本橋と紀州街道 

 


  太閤さんの 時代から橋は大阪のシンボルだった


 大阪の橋は重要な都市施設である。橋は、大阪の都市発展とともに歩んできた。なかでも大 阪のヘソに位置する日本橋は、古くから交通の要所として重視された橋であり、上方人の自慢 のタネでもあった。

 大阪の歴史のなかで、急速に都市が発展した最初の時期は、難波京の建設である。大化元年(645)、新しい政治体制(大化改新)のもとに難波宮への遷都 が行われた。日本で初めての企画性をもった都市の誕生である。大坂は新しい政治制度や文化の導入をはかるのに、もっともふさわしい土地柄であった。

 次に大きな都市発展がみられるのは、大坂城築城の時期である。豊臣秀吉は天正十一年(1583)、大坂城の建設を始めた。秀吉がこの地を選んだ理由は、 石山本願寺が実証したように、淀川・大和川によって防衛上有利であること、京都に近く、支配地の中心であり、支配地拡大に都合がよいこと、そして何より も、大阪が水陸両面の交通の要衝であることを大きく評価したものであろう。
 秀吉の大坂城築城の背景には、難波京建設と同様に、積極的な対外政策があったと考えられる。

 秀吉の大坂築城は、たんに城づくりにとどまらず、城下の市街地造成をともなっていた。
 川が開削され、多くの橋が架設されていった。橋は人の集まるところとなり、商売も橋詰めが利用された。京都方面への表玄関になっていた京橋の南側では青 物問屋が軒を並べ、北詰には鮒売仲間と称する川魚商が市場を開いていた。
 こうして舟運や陸上交通の起終点である橋の存在は、都市的な賑わいを増す大坂のシンボルとしての位置を占めるようになっていった。

船運や陸上交通の基終点となった市中の橋

船運や陸上交通の基終点と なった市中の橋。なかでも日本橋は大阪のヘソに位 置し、上方人の自慢のタネであった。(浪速区史)



浪華風流月旦評名橋長短録

浪華風流月旦評名橋長短 録
(松籟社刊・大阪の橋)

  為政者と民 衆が行き交じった”紀州街道”


 大阪を南北に貫く道路は、古代からもっとも重要な道路とされてきた。大和や紀伊へと続く道は、古くは”難波の大道”とか”熊野街道”という上町台地 南下する道が中心であった。
 船場から、堺や和泉へ、さらに紀伊へ至道が重要性を増してきたのは、豊臣秀吉の大阪城築城からであろう。この”紀州街道”は、秀吉が住吉大社や堺の政所 へ行くためにこしらえた道であるともいわれているが、この道が開かれたのはもっと古く鎌倉時代であったらしい。それを秀吉が紀伊根来や雑賀衆を攻略するた めの軍用 道路として整備し、紀州遠征などに利用したものと思われる。また、当時の国際貿 易都市であった堺と大阪を結ぶ幹線道路でもあった。

 江戸時代になると、紀州街道は紀州藩や岸和田藩の参勤交代のみちともなり、さらに整備がすすめられた。
 紀州街道は、もともと”住吉さん”への参道で、大阪では、”住吉街道”と呼ばれていた。それがはるか紀州まで続いていることから、のちに”紀州街道”と 呼ばれるようになったという。逆に、紀州では”大阪街道”とか”上方街道”と呼ばれていた。

 その道筋は、江戸期に刊行された「住吉名所図会・卷之三」に本街道として次のように紹介されている。(原文のまま)



  住吉参道案 内


 ○大阪よりの本街道は堺筋通りを南へ日本橋を渡り真っすぐに長町を南へ出離れ(東は天王寺西)、行當りを西へ一丁ゆけば今宮村札の辻を左へ一筋道則是本 街道なり

 文中の”札の辻”とは、現在の恵美須町交差点の西の辻のことで、そこから今宮新家・天下茶屋・住吉・安立を経て、堺・紀州に至った。

 ところで、紀州街道の起点については、為政者や街道管理者の立場などの観点の違いによつて、さまざまな解釈がみられる。天明七年(1787)、大阪の町 奉行は、北浜一丁目から長町九丁目までを堺筋とし、鼬川に架かる名呉橋(現在の浪速区恵美須町交差点)南詰以南を紀州街道としているが、文化三年(一八〇 六)、幕府の命によってつくられた「紀州往還見取絵図」では日本橋をもって紀州街道の起点としている。これが明治十八年の「国道表」にしめされた国道二九 号線では、高麗橋通と堺筋の交差点である現在の三越百貨店の西北角辻が起点(ただし二九号路線としては東京が起点)となっており、「大阪府誌」第四編(明 治三十六年)もこれにしたがっている。

浪華名所獨案内

浪華名所獨案内
(大 阪春秋)



  住吉参道案 内


 さらに昭和六十年刊行の「大阪市の旧街道と坂道」は高麗橋東詰里程元標を起点としている。さて、現在の起点の位置を浪速区役所に問い合わせたところ、浪 速区の恵美須町交差点とのことであった。しかし、本書では文化年間説の日本橋を起点としてのべることにする。ちなみに、”堺筋”の命名の由来は、堺、和泉 への道であることや、秀吉が堺の商人を大阪城下に移住させて城下町をつくったことからこう名づけられた。

 この堺筋を「下へ下へ」というかけ声とともに大名行列が進んでいく。”紀州さんのお通り”といえば、寝ている人のいびきがやむほどに恐れられたという。

大阪市中案内略図

弘化年間(1844〜48) の大阪市中案内略図。筋と通 の区別は曖昧だったようで、北浜には金相場会所や住友銅吹屋、大丸呉服店などが散見できる(大阪春秋


 余談になるが、大阪の”通り”と”筋”について触れておく。江戸時代は、大阪城を起点にした東西方向の道筋は”通り”と呼ばれて主要道路とされ、通りと 直角に交差する南北の道筋は”筋”と呼ばれて裏町という位置付けになっていた。よく「大阪では東西が”通り”で南北が”筋”」といわれるが、これは江戸時 代の名残で、たまたま船場周辺がそうなっているだけで、全市でみれば、いちがいには当てはまらない。


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目次

 第一部 江戸時代から長町の宿場町


 第二部 大阪の文明開化 と大正そして昭和の戦禍

 第三部 パーツ全盛の電気街と技術革新の波


 第四部 日本橋の新しい顔「でんでんタウン協栄会」


座談会 「僕らの時代の日本橋」〜二十一 世紀へ、新しい電器街の創造をめざして〜